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バーナード・ウィリアムズ 「人格、性格、道徳」のまとめと所感


バーナード・ウィリアムズ
「Persons, character and morality」(Moral Luck pp.1-19)

 まとめと言いつつ難しさはそのままになっている気がするので、わからないかもしれません。所感だけでもポイントはだいたいわかるかもしれないです

 

 

まとめ


1
p.1~p.2 第二段落まで
 

 ロールズネーゲル、ヘアらの道徳哲学のカント主義的な傾向においては、道徳の観点(moral point of view)は不偏性や個物(particular)への無関心[普遍性]で特徴づけられる(ヘア以外はアンチ功利主義ではあるが)。
 特に、普遍性への注目は、道徳の観点に立つ行為者が持つ動機づけ(motivation)を、個別の人を扱う際に彼が持つ動機づけと異なるものにする。道徳の観点に立つときは、不偏的な原則を合理的に当てはめようという動機づけを含むのだ。
このような立場は、カントと同様、道徳的な観点とその他の観点の違いを問おうともしないし、道徳的な観点に特権が与えられているので、その他の観点が人生において持つ重要性を適切に認めることができない。

※ここでいうmotivationは、理由reasonと同じような意味で使われているように考えられる。

第三段落~p.5第一段落

 功利主義は、人々の満足を集塊(agglomeration)する点と、事態の評価において「誰が」それをするかは関係なく、道徳的行為者を単なる満足の体系(satisfaction system)の代表者にしてまうという二つの点で、人格の別個性を捨象(abstract)する。個別の人との個別の関係を捨象する点で共通するカント主義と功利主義はこの人格の別個性を捨象するかしないかで区別され、カント主義は功利主義が人格の別個性を捨象することに反対する。
 しかし、カント主義は道徳的行為者としての人に貧弱で抽象的な性格を想定するのだが、そのことによってやはり道徳的経験における個人の性格(individual character)や個人的な関係(personal relations)の重要性を十分に認めることができていないように思われる。

2
 p.5第二段落~第三段落
 

 この論文においては、以上の大きな主題の二つの側面を扱う。それらのどちらもが、「個々の人は、それらが性格を構成するのに役立っているような、欲求や関心(concerns)やプロジェクトのセットを持っている」という考えに関するものだ。
 第一の側面はこのことと、人が生きる理由を持っているということとの関わりである。これに対してはパーフィットの人格同一性の議論に言及しながらアプローチしていく。性格の変化を経験するような一つの自己(self)もしくは人格という普通の考えが重要であるということを強調するのが目的である。
 第二の側面は次のセクションでやる。

第四段落~p.10 第二段落


 パーフィットが「複雑な見解(Complex View)」と呼ぶ人格同一性に関する一つの見方では、人格の同一性は心理的なつながりに応じた程度的なものである。

(かなり略)
 「複雑な見解」のような立場においては、「未来の自己たち(future selves, later selves)」の持つ欲求や計画などを現在の自分がどの程度考慮するかは、彼らが現在の自分とどの程度の心理的なつながりを持つかによって変わる。そこで、現在のある人が、未来の「自分」が現在とは異なる欲求やプロジェクトを持つだろうということを知っており、現在の彼のプロジェクトを考慮して、未来の彼のプロジェクトを妨げようと算段する場合を考えよう。
 このケースにおいて、現在の彼は未来の「自分」を「私が賛同できないプロジェクトを持った別の人」として扱っているとは考えられない。なぜなら、未来の「自分」が現在の自分とは別の人であるかどうかはまず未来の自分をいわば「子孫」として同定しそれから未来の「自分」の性格と現在の自分の性格との関係を考えることによって決まるが、そのような現在の自分とは独立した未来の「自分」の存在やその現在の自分との近さ自体が、まさに未来の「自分」の性格と現在の自分の性格の関係の有無によって決定されるため、そうした関係を考える前に未来の「自分」を措定することはできないからだ。あくまで彼は、未来の彼自身のプロジェクトを妨害しているのだ。このように考えるとき、欲求やプロジェクトの変化が彼の性格の変化となるような「彼」が、基礎的なこととして認められなければならない。
 さらに、「なぜ彼は現在の自分のプロジェクトを権威あるものとして未来の自分のプロジェクトにたいして優先するのか」、つまり「いかにして彼は二つの展望(outlook)を評価するのか」というような問いを問うことができるが、そのような問いを立てるためには、彼が彼の現在のプロジェクトを「現在のプロジェクトである」と理解している必要がある。そして彼がそのような理解を持つためには、彼は「自分が変わるだろう」ということを理解していなければならない。現在の価値観を自分のアイデンティティとしている人がそのような価値観を持たない未来の自分とどのような関係にあるかを問うためには、「彼が現在の価値観を失ったまま生きるのは彼自身の未来なのだ」ということを基礎的な事実としてみとめなければならないのだ。

p.10 第三段落~p.12 第二段落

 このことは、なぜ我々は[そのような変化を経ても]続いていくのかという疑問へと導く。
 なぜ死は悪いのかという問いに大して「欲求を持っているから」と答えることができるが、その場合その欲求とは、生きていないと満たせない欲求であり、将来において生きているだろうという見込みに依存している。一方、生きているだろうという見込みに依存せず、まさにその欲求を持っているがゆえに生きるというような「定言的欲求」というものもある。そのような利害関心、欲求、プロジェクトが、「未来の自分」の存在そのものを構成している。
 「未来の自分たち」を文字通り捉える[「未来の自分」を別人と捉える、功利主義と親和性のある見方]と、現在の自分が現在の自分のプロジェクトに対して持っている関係を、現在の自分が他人のプロジェクトに対して持っている関係と不当に似ているものにすることになる。一方カント主義的な不偏性の強調も、「自分がプロジェクトを持っている」ということの意味を非常に薄いものにすることによって、向きは違うけれども同じことを誇張している。しかし、先ほど述べたように、我々の持つ定言的欲求が我々の存在の条件であるという考えに注意をするべきだ。そのような欲求やプロジェクトのなかには、彼の実存や人生の意味に非常に重要な仕方で関係している、グラウンド・プロジェクトがあり、それが道徳的要求と重要な仕方で対立する場合がある。

p.12 第三段落~p.14 第二段落
 グラウンド・プロジェクトは、生きる理由を提供するものだ。しかし、あるプロジェクトがグラウンド・プロジェクトとされるためには、それが失敗した際に人が自殺をしたり自殺を考えたりしなければならないということはない。とはいえ、彼はグラウンド・プロジェクトが失敗したような状況ではまるで死んでしまったかのように感じるだろう。
 このようなグラウンド・プロジェクトを持つ人間に対して功利主義は、非個人的に効用を最大化する者としてそうしたプロジェクトを無視するように要求するが、これは馬鹿げた要求である。しかしカント主義も、同様の衝突が起こる際には不偏的な観点が勝らなければならないとする点で、不十分である。グラウンドプロジェクトは行為者にとって、世界に存在することに対して関心を持つことのまさに条件なのであり、それを諦めろという要求は行為者にとって理にかなわない(unreasonable)のだ。「性格を持つ」ということがどのようなことかを理解するならば、性格を捨象しなければカント主義的な不偏道徳の要求を支持することはできないということ、そしてこのためにカント主義が個人についての考慮において不十分であるということがわかるだろう。

3
p.14 第三段落~p.16 第一段落
 ここまでの議論は、ある人が自分のアイデンティティとするプロジェクトや定言的欲求を持っているという意味において性格を持つ、という考えに基づいてすすめてきた。しかし、人はそれぞれ違う性格を持っているということはまだ議論に関わっていない。

 人々が異なる性格を持つという事実が道徳における個人性ということに関して重要な役割を果たすのは、他人に対する個人的関係においてである。友人関係について考えてみよう。ある人にとってのある友人はもう一人別の友人とは替えがきかないという考えには、彼自身替えがきかないものであるという考えと、彼と友人とは異なっているという考えがついてくる。
 理想の友人関係は自分とは異なる人と結ぶものだということに同意するなら、いかにある程度の差異が本質的な役割を果たすのか、そして、いかにして特定の人との関係に従事し、コミットすることが人生において基礎的な[グラウンド]プロジェクトの一つでありうるのかを理解することができる。

p.16 第二段落〜p.17 第一段落
 カント主義者は、個人的関係は少なくとも道徳的関係を前提しているとみなしている。しかし、このような考えは間違っている。特定の人の利益を気にかけたり、その人との約束を守ったりはするけれども、他の人にはそのような関心を示さないということはありうる。たしかに、ある人が誰かを愛するときに、愛する人に対して、道徳的な人が愛する人以外に示す関心と同じ関心を示すべきだと考えている限りにおいては、愛の関係は道徳的関係の一例ではある。しかし、それは誰かを愛する人が道徳的な人として人々と結んでいる関係をこの事例に当てはめたからではないのである。

p.17 第二段落〜p.18第二段落
 個人的な関係を真剣にとらえると、道徳との間に衝突が生じうる。しかもその衝突は、ある状況に関する結論(outcome)における衝突だけではなく、いかにして結論に達するかにおいての葛藤もある。つまり、そこにおいて結論や解決(resolution)に至るのに、不偏的なプロセスがふさわしくないような状況があるのだ。この事実が、不偏的な道徳意識を揺るがせるのだ。たとえばなんらかの危機的状況(船が難破するなど)において、ある人が1人の人を救うことができる場合、誰を救うかをコイントスによって決めるというのは、不偏的であるが、ふさわしくない。このふさわしくなさから来る不安(unease)が、何らかの「救い」ともとれるような「答え」を要求する問いを提起する。例えば、彼が難破船の船長であるような場合には、個人的関係を無視するべきだという議論は受け入れられるものになるだろう。または、このような災害状況において犠牲者と個人的な関係を結んでいるひとが救出者であるような確率はそれぞれの犠牲者にとって平等であるという意味において、別のレベルで公正(fair)であるという解答も考えられるだろう。このような「ランダムさ」は正当化というよりはむしろ、正当化の埒外にある状況が存在するということを思い起こさせるものだと捉えられるべきであるが。
 しかし、[この状況は正当化の埒外にあるのではなく]救出者が選んだ犠牲者が彼の妻だったという事実は、救出者にとっての正当化なのではないだろうか。ただ、「それが彼の妻だった」という考慮が正当化であると述べられるとき、なんらかの高階の道徳原則が彼の選好を正当化するということが想定されていることもある。例えば、このような状況にあっては各人が自分のことを気にかけるべきであるというような規則功利主義的な原則などである。しかし、このような構成(construction)は、行為者に対して余計な考え(one thought too many)を抱かせることになる。つまり、こうした状況において救出者を動機づける考えとしてふさわしいのは、端的に「その人が彼の妻であった」という考えであり、「その人が彼の妻であり、そしてこのような状況においては妻を助けることは許される」という考えではない。

p.18第三段落〜最後
 要点はこうだ。他の人に対する深い愛着のようなものは不偏的な見解を無実化してしまうような形で姿を現しうるし、また不偏的な見解に背くおそれもある。こうした必然(necessity)に、人はどこかで直面する。
 他人に対する愛着のようなものは、存在するならば不偏的な見解にそむくだろう。しかし、そうしたものがなければ、人を人生それ自体に献身させるに十分な実質(substance)もしくは信念(conviction)もまた存在しないだろう。人生に意味があるならば、そのような実質がなければならず、そうした実質があるならば、不偏的な体系に最高の重要性が与えられることはない。
 道徳哲学にありがちな、人を抽象化し性格を捨象するという習慣は、ある種の思考を正しく扱いうるものではないし、むしろそうした思考を誤って表象するものである。こうした思考は、ある人の自己(self)に関する概念と、彼自身(oneself)に関する概念が、最も重要な仕方で接する領域である。


所感



 全体に「あれ」とか「それ」とかが曖昧で文章が難しく、話題もあっちこっちするので読むのが大変だ。そのため、とんでもない誤解をしている可能性があるので、ご意見があれば伺いたい。骨子だけをまとめたつもりなので、この要約で省略した部分にも面白い論点はあったと思う(例えば人格の同一性に関する理論と道徳との関係のあり方についてなど)。
 内容に関していえば、「人はそれぞれ人生の意味、すなわち自分が将来にわたって存続する条件とも言えるようなグラウンド・プロジェクトを持っており、それが性格を持つということである」というテーマの第二部と、「個人的な関係と不偏的な道徳は相性が悪い」というテーマの第三部とのつながりが、話の筋を追っているだけではわかりづらい。
 一つには、次のような読み方ができる。第二部の話ですでに「道徳によってグラウンド・プロジェクトを放棄せよと要求されるとき、その要求に従うのは不合理だ(absurd)」という話が出ていることを考えると、第三部で行われていることはグラウンド・プロジェクトの一例として個人的関係を取り上げ、それがどのように道徳と衝突するかを描くことだという読み方である。この読みかたでは個人的関係の重要性は単に人にとってのグラウンド・プロジェクトの重要性のヴァリエーションであるということになる。果たしてウィリアムズは個人的関係の重要性をそのように副次的なものだと考えていたのだろうか。個人的関係は人生においてもっと本質的な役割を果たしているとウィリアムズが言いたいようにも読める気がする。
 そこで、個人的関係の重要性をより担保できるような、もう一つの読み方を考えてみたい。それは、この要約でいうと

人々が異なる性格を持つという事実が道徳における個人性ということに関して重要な役割を果たすのは、他人に対する個人的関係においてである。友人関係について考えてみよう。ある人にとってのある友人はもう一人別の友人とは替えがきかないという考えには、彼自身替えがきかないものであるという考えと、彼と友人とは異なっているという考えがついてくる。

 



という箇所に注目する読み方である。個人的関係(例えば私と友人の間の友人関係)においては、関係を結ぶ相手(友人)は替えがきかない。なぜなら、その友人をその友人たらしめているのはまさにその友人の持つ性格だからである。そして、「この」友人関係にフォーカスしたとき、友人を替えないとしても、私が別の人であったならば、それはもはや「この」友人関係ではない。それゆえ、特定の友人と結ぶ友人関係においては、友人の替えがきかないことばかりか、私もまた替えがきかないものだということが認識される。
 重要なのは、個人的関係を考慮に入れない限り、人々の間の違いが重要であること、さらには自分の替えがきかないということを、人が認識できると保証できないという点だ。「人はそれぞれ生きる理由を持っている」ということが示すのは、私にとって私のプロジェクトが重要であるということに尽きる。このことを示すためには、「私は他の人と異なるプロジェクトを持っているからこそ私である」と言える必要はない。単に私が私であるということには、私と他人のプロジェクトや性格が異なっているかどうかは関係ないのである。しかし、他人と個人的関係を結ぶならば、そこにおいて私が替えの効かないものであるということは決定的に重要である。注意しなければならないのは、個人的関係において私が自分の代替不可能性を認識するのは、個人的関係が自分と異なるプロジェクトを持っている他人が存在することを前提するからではないということだ。自分の代替不可能性はむしろ、そうした個人的関係そのものの代替不可能性に由来していると言えるだろう。

 まとめると、各人の性格の違いが私の「自分は代替不可能である」という理解にとって重要となるのは次のような仕方によってである。代替不可能な個人的関係においては特定の相手とその他の他人との間の違いが、まずその特定の相手の代替不可能性を成立させている。そこから翻って、その代替不可能な相手と結びついている自分もまた代替不可能であるということが理解されるのだ。
 こうして考えてみると、個人的関係というのは単に各人が持つプロジェクトの一例としての重要性しか持たないのではない。むしろ、個人的関係を通じて我々は我々自身にかけがえがないということを認識することができる。それゆえに、個人的関係は様々なプロジェクトのなかでもとりわけ固有の重要性を持つ。ウィリアムズが第三部で目指していたこととは、我々にとっていま述べたような仕方でとりわけ重要な個人的関係というプロジェクトがすでに道徳との衝突可能性を秘めていると指摘することで、我々のグラウンド・プロジェクトと道徳との衝突がリアルな問題であり、看過されえないと示すことではないだろうか。

実はこの論文を読んだのは、スーザン・ウルフがloveを論じた “One thought too many”という論文を読むためである。ウルフはやく読みたい。