ネイティブ広告のディスクロージャーの必要性に関する論考

 ネイティブ広告ハンドブック2017がJIAAより出されたので、以前(2015年5月)に書いたネイティブ広告のディスクロージャーの必要性に関する論考を公開しておこうと思います。以前他所に(私的に)載せていたものなので、見たことある人がいるかもしれません。すみません。権利とかそういうのは大丈夫です。

 ハンドブックでいうと、pp.39-45「Ⅶ. ネイティブ広告におけるディスクロージャーの重要性について」とほぼ重なる問題意識で考察を行ったものです。ネイティブ広告の倫理学、という感じです。

 読みにくいかもしれません。すみません。

 

 

 

 2015年5月12日、株式会社サイバーエージェントが、「掲載済ネイティブ広告における一部ノンクレジット広告事例に関するお詫び」と題した謝罪記事[1]を公開した。以下に抜粋して引用する。

 

当社は、広告代理販売を行うネイティブ広告に関して社内調査を実施したところ、一部クレジット表記が無い広告を子会社の株式会社サイバー・バズより4件、代理販売していたことが2015年5月12日時点において判明したため、ご報告するとともに深くお詫び申し上げます。

 ネイティブ広告とは「デザイン、内容、フォーマットが、媒体社が編集する記事・コンテンツの形式や提供するサービスの機能と同様でそれらと一体化しており、ユーザーの情報利用体験を妨げない広告を指す」(引用元:一般社団法人インターネット広告推進協議会 以下JIAA)ものであります。その広告形式からユーザーが広告を受け入れやすい一方、ユーザーが広告ということに気がつきにくいという点が課題とされており、2015年3月18日にはJIAAより、ネイティブ広告について広告ということがわかるようクレジット表記を推奨する「ネイティブ広告に関するガイドライン」が発表されております。

(後略[2]

 

 この謝罪記事から伺えるように、ネイティブ広告の課題は「ユーザーが広告を受け入れやすい一方、ユーザーが広告ということに気が付きにくいという点」であるとされている。JIAAによる「ネイティブ広告に関する推奨規定」[3]においても、この課題を克服すべく、すべてのネイティブ広告に広告表記を行うことが推奨されている。

 しかし、本論でも述べるが、ネイティブ広告については広告表記を行わないほうが広告主とユーザーそれぞれにとってより利益になるという場合が考えられる。にもかかわらずすべてのネイティブ広告が広告表記されるべきだと本当に言えるのだろうか。

 そこで本稿は、「すべてのネイティブ広告が広告表記されなければならないのか、そうだとしたら、それはなぜか」という問いに答えることを目指す。本稿の構成は以下である。まず第1節で、ネイティブ定義や類型、ネイティブ広告に期待されることを概観する。続いて第2節で、すべてのネイティブ広告に広告表記を行うべき根拠の候補として、法的根拠を検討する。第三節では、「商業的意図を隠す」という点でネイティブ広告と問題領域を共有するステルスマーケティングについて、それが親密な関係を崩壊させるという議論を概観し、その議論がネイティブ広告にも当てはまりうるかを論じる。第四節では帰結についての議論から、上述の問いに答えを与える。

 

1 ネイティブ広告とは何か

 1.1 定義

 冒頭のサイバーエージェント謝罪文においては、「ネイティブ広告」の定義としてJIAA(日本インターネット広告推進協議会)によるものが紹介されていた。本発表でもネイティブ広告の定義としてはこれを採用することとし、以下に再掲しよう。

 

ネイティブ広告とは:

デザイン、内容、フォーマットが、媒体社が編集する記事・コンテンツの形式や提供するサービスの機能と同様でそれらと一体化しており、ユーザーの情報利用体験を妨げない広告[4]

 

 現在日本国内で主流に行われているネイティブ広告は更に「インフィード広告」「レコメンドウィジェット」「タイアップ」に分類され、「インフィード広告」と「タイアップ」に関してはさらに細かい分類がなされる。以下で、発表者がインターネット上で発見した具体例を用いてそれぞれについて説明していく。

 

(1.2の具体例は中略します。)

 

1.3 ネイティブ広告隆盛の背景

 

 以上のようなネイティブ広告が多くの広告主に好まれるようになった背景としては、1990年代末に発見された「バナーブラインドネス現象」が挙げられるだろう。バナーブラインドネス現象とは、ユーザーがウェブページを読んでいる際にバナーに似ているページ内要素を無視するという現象である。近年の研究では、バナー等の画像広告だけでなく、広告的内容のテキストに対しても、同様の現象が見られると報告されている。つまり、「ユーザーは、それが彼らのタスクの完了に必要であるか、それが広告でないと知覚されないかぎり、積極的にテキスト広告を無視する」[13]ということが明らかになっている。

 このようにユーザーが「広告的なもの」を無視する能力を身につけ始めた以上、当然広告主や媒体社は広告を記事やコンテンツと極力見分けのつかないものにすることを望む。ネイティブ広告に期待されているのはまさに、「記事やコンテンツと見分けがつかず、ユーザーが見てくれる」という効果であると言うことができるだろう。

 

1.4 ネイティブ広告と広告表記

 

 ネイティブ広告は以上で見たように、よりユーザーの目に触れやすい広告手法として広告主や媒体社から期待されている。ところで、当然そのようなネイティブ広告に広告であることを示す表記がつけられるのとつけられないのとでは、当然前者のほうがユーザーの目に触れやすくなる。インフィード広告やレコメンドウィジェットについては、それらに広告表記がされていれば、ユーザーはそれらの誘導枠を自分に関係のないものとみなしがちになるであろう。タイアップ記事やスポンサードコンテンツの場合、広告表記がなされた場合ユーザーはその記事を無視してしまうことが考えられる。さらに、CINRAの代表取締役である杉浦太一が主張するように[14]、それらの記事やコンテンツの質が高く、広告主の伝えたい一方的な情報ではなくユーザーの求めている情報を提供することができている場合には、それらに広告表記を行うことで、ユーザーがそれらの情報を利用するという利益を得る機会を奪ってしまうこともあり得る。つまり、ネイティブ広告に広告表記を行うことは少なくとも広告主や媒体社の直接の利益にならないばかりか、場合によってはユーザーの利益にならないこともあると考えられる。

 にもかかわらず、序節でもみたように、JIAAはすべてのネイティブ広告に広告表記をつけることを推奨している。JIAAは、「インターネット広告倫理綱領及び掲載基準ガイドライン」[15]において、広告表記について次のようなガイドラインを定めている。

 

(10) 広告であることの明示

広告掲載枠に掲載される広告は、一般に、広告が表示されることが明確であるが、媒体社が編集したコンテンツ等と混在したり、並列したり、リストの上位に広告として掲載される場合や、広告を中心とした特集記事や、いわゆるネイティブ広告等において、消費者等が媒体社により編集されたコンテンツと誤認する可能性がある場合や、広告であることがわかりにくい場合には、その広告内や周辺に、広告の目的で表示されているものである旨([広告]、[広告企画]、[PR]、[AD]等)をわかりやすく表示する必要がある。

 

 

 

 なぜ、誰の利益にもならない可能性があるにもかかわらずこのような「必要がある」のであろうか。次節では、ネイティブ広告に広告表記を行うべき理由として挙げられる、「違法性の疑い」について考察を行う。

 

2 広告表記の必要性:違法性の疑い

 

 ネイティブ広告に広告表示を求める一つの理由としては、「広告であることを隠して広告することは違法となるおそれがあるから」というものが挙げられる。

 消費者庁は、平成24年5月9日に一部改定された「インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法[16]上の問題点及び留意事項」において、「口コミサイト[17]におけるサクラ記事など、広告主から報酬を得ていることが明示されないカキコミ等」について、「商品・サービスを提供する事業者が、顧客を誘引する手段として、口コミサイトに口コミ情報を自ら掲載し、又は第三者に依頼して掲載させ、当該「口コミ」情報が、当該事業者の商品・サービスの内容又は取引条件について、実際のもの又は競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認されるものである場合には、景品表示法上の不当表示として問題となる」との見解を示している[18]。あるサービス・商品の事業者または事業者に依頼された広告主から報酬を得ているにもかかわらず、一般消費者を装って好意的な書き込みや記事が書かれると、消費者はそのサービス・商品を実際以上に魅力的に誤認してしまうおそれがある。その場合、景品表示法4条1項1号に定められる「優良誤認表示」に該当し、違法となる。サイバーエージェント謝罪記事の直前には、広告表記を行わないネイティブ広告もまた優良誤認を導くという点で上記のような違法性を持つと指摘した山本一郎[19]による記事[20]が注目を集めており、この認識は多くの人々に共有されていると思われる。

 確かに、商品レビュー記事やサービスの紹介記事などが広告主に依頼され、ライターによる好意的な評価を伴って執筆されるとき、そこに広告表記がなければ、ユーザーはその商品なりサービスなりを実際以上に魅力的に感じたり、競合する他の商品やサービスに対して有利に捉えたりすることがあるかもしれない。

 しかし、ネイティブ広告の場合には、そのコンテンツにおいてその商品やサービスに対して実際以上に好意的な評価を行われていない場合、また競合する商品やサービスとの間でバイアスのかかっていない比較が行われた結果有利であることが示されている場合には、必ずしも有利誤認・優良誤認は起こりえないように思われる。よって、いわゆる「提灯記事」については、それが有利誤認・優良誤認を引き起こすおそれがあり、違法性が広告表記を行う理由となるが、ユーザーの期待する程度の客観性が保たれているコンテンツを持つネイティブ広告に対しては、広告表記を行う理由にはならないかもしれない。

 しかし、「いかに客観性が保たれていようと、記事という体裁でライターによる選択を装ってそれらの商品やサービスを取り上げる事自体が、その商品もしくはサービスに有利性をあたえる。それを取り上げるのが広告主に依頼されたためであることが明示されていないならば、有利誤認・優良誤認を引き起こすおそれがある」とも考えられる。たしかに、特定の商品・サービスを取り上げたとき、ライターの好みなど広告依頼をされたということ以外の理由でその商品やサービスを取り上げたかのように装われている場合、それが実は広告主の依頼によることが隠されていれば、その商品・サービスが取り上げられたことはそれらに不当な有利性を与えるかもしれない。しかし、それらが取り上げられたのは実際にライターの好みによる場合や、それらを取り上げる広告目的以外の根拠が実際に存在するか、もしくは実際にいかなる根拠もなく偶然その商品が取り上げられている場合は、それらが取り上げられたことはそれらに有利性を与えない。そのような記事の体裁をとるネイティブ広告については、広告表記を行わなかったとしても有利誤認・優良誤認が生じる恐れはないであろう。よって、少なくともそのようなネイティブ広告、つまり実際に広告主に依頼されずとも同じように書かれたであろう内容のネイティブ広告については、違法性による理由は広告表記する理由にはならないであろう。

 

3. 広告表記の必要性:親密な関係を崩壊させる

 

 前節ではネイティブ広告に広告表記を行うべき理由の候補として有利誤認・優良誤認を生じさせる疑いを検討し、広告目的でない記事と見分けのつかないネイティブ広告に対しては当てはまらない可能性があると論じた。

 ところで、広告であることを明らかにせずに広告活動を行っていることが明らかな場合、消費者に「ステルスマーケティング」の一種として非難される傾向がある。前述の景品表示法ガイドラインも、そのようなステルスマーケティングが問題視されたことを受けて、広告は広告であることを明示すべきいう内容を盛り込んだものである。米国ではステルスマーケティングについては2000年代からその問題性を指摘する議論が見られ、中には倫理学的な考察もある。広告表記のないネイティブ広告がステルスマーケティングと問題となる性質を共有している場合、それらもまた問題であることになり、広告表記を行うべき理由として認められるかもしれない。

 そこで本節では、ステルスマーケティング(アンダーカバーマーケティング、コバートマーケティング)について議論された「広告であることを隠して広告することの倫理的な問題性」の一つとして「親密な関係を崩壊させる」という問題を取り上げ、広告表記のないネイティブ広告がその問題性を共有しているかどうかを検討する。

 

 Kennet and Matthewsは、「アンダーカバーマーケティングの道徳的不正さは、広告行為者がある親密な結びつきを利用してexploit、それによって対象を無防備vulnerableにさせる際に生じる」[21]と述べる。例えば、友人を潜在的消費者としてマーケティングの対象とするステルスマーケティングは、友人としての推奨を装って対象人物にある商品・サービスを提示する。その際、対象人物は通常のマーケティングにさらされた際に普通行うような、その商品・サービスの精査や比較といった反応をすることが妨げられ、無防備にさせられている。なぜなら、我々は友情によって結びついた相手自身のために、熟慮を伴わない行動をとる理由を持つからである[22]。友人を理解するために、友人の勧めるもの、友人の好むものを熟慮を経ずに自分も体験しようとするのである。

 Kennet and Matthewsがアリストテレスの友愛論にもとづいて主張するところによると、真の友情は「友人に対する、その友人自身ゆえの関心に導かれる」[23]ステルスマーケティングを行う者(「エージェント」と呼ぼう)が友人に何らかの商品を奨める際、その友人に対する関心concernはその友人自身ゆえの関心ではなく、自分のための関心、または第三者の商業的利害関心interestのゆえの関心である。このとき、エージェントが利用しているところのその「友人」との間の「友情」は、もはや真の友情ではありえない。では、このような相互行為を通じて真の友情が育まれるかというと、それもありえない。なぜなら、真の友情に伴う親密さを構成する、「共有された、固有の、友情という物語」を形成することができないからである。エージェントと「友人」の間の相互作用は、エージェントにとってはマーケティング行為であり「友人」にとってはそうではないため、共有され得ない。また、エージェントにとってはそのような相互作用はマーケティング行為の一例でしかないため、固有なものではないのである。

 以上のことから、Kennet and Matthewsは、ステルスマーケティングは真の友情という制度とは両立せず、友情はそこでステルスマーケティングが行われれば崩壊してしまうだろうと主張する[24]

 友情のような親密な関係それ自体に価値を置くことを否定する帰結主義者であっても、このような親密な関係を我々は必要としていることは認めるだろう。仮にネイティブ広告に広告表記が行われない場合このような親密な関係が崩壊させられるのだとしたら、それは望ましくない帰結として、広告表記を行うべき根拠となりうるだろう。

 さて、それでは広告表記のないネイティブ広告がこのような関係の崩壊をもたらすかどうか考えてみよう。広告表記のないネイティブ広告は、その内容がユーザーに対してなんらかの商品・サービスを推奨するものである場合、記事の体裁をとり広告であることを隠すことによって、ユーザーにそれらの商品・サービスを精査し、競合する他の商品・サービスと比較することを妨げてしまっているかもしれない。このことはネイティブ広告が有利誤認を引き起こす可能性を検討した際にみたとおりである。ユーザーから熟慮する機会を奪うために、広告表記を行わないネイティブ広告はわれわれと媒体社の間のなにか親密な関係を利用していると考えられるだろうか。発表者には、媒体社とユーザーの間には、「真なる友情」のような、自身や第三者の利害関心を含まない場合のみ成立しうるような親密な関係は無いように思われる。なぜなら、ユーザーは少なくとも自分の利害関心のためにメディアを訪れ、そこで提供されている情報を利用しようとしているためである。よって、広告表記のないネイティブ広告には、親密な関係を崩壊させるという問題性はみられないと結論付けることとする。

 

4 広告表記の必要性:誰にとっても望ましくない帰結を避ける

 

 本発表の問題関心は、第2節冒頭で見たように、記事・コンテンツとして質の高いネイティブ広告に対しては、広告表記をつけると誰にとっても望ましくない帰結を生じさせる可能性があり、それを考慮したとき、すべてのネイティブ広告に広告表示をつけるべき根拠は一体なんなのかということであった。第2節ではその根拠の候補として広告表示をしないことの違法性を検討したが、質の高いネイティブ広告については広告表示をつけないことに違法性は認められないのではないかという結論を得た。第3節では、広告に広告表示をつけないことは親密な関係の崩壊という誰にとっても望ましくない帰結を生み出すのではないかというステルスマーケティング問題から着想を得た疑念を検討したが、この疑念はネイティブ広告には当たらないと結論づけた。

 本節では、ネイティブ広告に広告をつけない場合に誰にとっても望ましくない帰結が起こる可能性について論じ、それがすべてのネイティブ広告に広告表示をつける根拠になりうるか検討する。

 

 JIAAは、第2節でみたガイドラインを設定した理由として「消費者がインターネット広告を通し安心して広告主から発信される情報を生活により役立つものとして利用できるよう、その信頼性、安全性を継続して確保する必要」があると述べている。ここでは、ネイティブ広告に対して広告表記がつけられないとインターネット広告一般に対する消費者の信頼が低下し、そのような信頼の低下は消費者が広告主から発信される情報を利用できなくなるという事態を引き起こすと言われている。本当にこのようなことが引き起こされるのならば、これは消費者にとって、「情報をより生活に役立つものにできなくなる」のだから、望ましくない帰結である。また、ユーザーがバナー広告やテキスト広告を無視するようになった状況を打開するものとしてのネイティブ広告すらもインターネット広告の一部としてユーザーに無視されるようになってしまうことは、広告主や媒体社一般にとっても望ましくない帰結である。

 しかし、このようなことは起こりうるのだろうか。以下で詳しく検討してみよう。

 まず、インターネット広告それ自体が信頼の対象であるとはどのようなことだろうか。Brenkertによれば、信頼は「Xは、Yを、Cという文脈においてZをする(もしくはしない)と信頼する」という形で述べられる関係である[25]。これを踏まえるならば、消費者のインターネット広告に対する信頼として、例えば「消費者は、広告を、いかなる文脈においても虚偽の情報を提供しないと信頼する」というようなものがあると言えるだろう。広告表記がされないことでインターネット広告に対する消費者の信頼が失われると言うとき、消費者の信頼は「消費者は、インターネット広告を、それが提示されている時には自らを広告であると明示すると信頼する」という形で表されるだろう。

 このとき、広告が提示されているにもかかわらずそれが広告であると明示されていない場合に消費者のインターネット広告に対する信頼が損なわれるわけだが、このことが起こりうるためには、次のことが要請される。すなわち、広告表記が行われていなくても、そこで何らかの広告が提示されているとわかるようになっていなければならない。ここで、第二節で有利誤認を引き起こさないと論じたような質の高いネイティブ広告の場合、広告が純粋な記事やコンテンツと見分けのつかないようになっており、広告表記なしにネイティブ広告が提示された場合、そこで広告が提示されているかどうかはわからない。ゆえに、当該の記事・コンテンツが広告表記のないネイティブ広告だと明かされない限り、それらは先の要請を満たすことが出来ないため、それらに広告表記が施されないことがインターネット広告に対する信頼を損なうということはありえない。

 もっとも、広告表記が行われていなくても、そこで何らかの広告が行われていることが明らかにわかる場合には、上の要請を満たすため、それらに広告表記が施されていない場合インターネット広告に対する信頼が損なわれる。Twitterなどの一部のソーシャルメディアでは、フォローなどの形で消費者がフィードに表示するコンテンツを選択できるので、インフィード型広告が広告表記なしに表示された場合には、そこで何らかの広告が提示されていると判断されても不思議はなく、消費者のインターネット広告に対する信頼は損なわれる場合があるかもしれない。

 しかし、仮に消費者がインターネット広告に対する信頼を失いインターネット上の広告から得られる情報をすべてシャットアウトするようになったとしても、記事・コンテンツと本当に区別のつかないネイティブ広告ならば、広告表記さえしなければ消費者に広告主からの情報を届けることができる。なぜなら、消費者にとってそれらは記事・コンテンツであり、情報をシャットアウトする対象である「広告」ではないからである。そのように広告が出され続けるならば、消費者のインターネット広告に対する信頼は失われているにもかかわらず、望ましくない帰結は生じない。むしろ、そのような信頼が失われ広告が一切忌避される状態にあっては、質の高いネイティブ広告を広告表記なしで行うのが、消費者・広告主・媒体社のそれぞれにとって望ましい帰結をもたらすことになってしまう。

 

 しかし我々は、消費者の、インターネット広告ではなく、インターネット記事一般に対する信頼にも注目すべきである。ここでも、ステルスマーケティング分析から教訓を得ることができる。Martin and Smithは、体験記風のブログを用いたステルスマーケティングは、ブログ一般に対する、本物の消費者としての体験を報告してくれるという信頼を利用している(exploitative)という指摘を行っている[26]

 ネイティブ広告もまた、ユーザーをその内容に対して無防備にさせ、目に触れやすくするために、消費者の何らかの信頼を利用しているように思われる。我々は少なくとも、商品やサービスを紹介するような内容の記事・コンテンツに対して、それらが広告目的で書かれたものでないと信頼していると考えられる。「消費者は、インターネットの記事・コンテンツ一般を、特別の表示がない限り、取材や編集に基づいたメディアの伝えたい情報を提供してくれると信頼している」と言えるのではないだろうか。

 すると、広告表記がつけられていないネイティブ広告を消費者が記事やコンテンツとして読み、そこで提供されている情報が実は広告主に依頼されて提供された情報であったと明らかにされた場合、インターネット記事に対する上のような信頼は損なわれる。

 Martin and Smithは、ステルスマーケティングにより友情や信頼などが利用されることの望ましくない帰結として、社会的な相互作用が行われる場合に常にそれがマーケティング行為なのではないかと疑わなければならない社会が到来すること[27]を挙げている。広告表記の行われないネイティブ広告についてもこれと同様に、ユーザーがインターネット上の記事・コンテンツ全てに対してそれが実は広告ではないのかと疑いの目を向けるような事態を引き起こすことが考えられる。これは気軽に求める情報を利用することができなくなるため消費者としても望ましくない事態であろうし、広告主・媒体社としても、消費者に情報を利用されづらくなるため望ましくない事態であろう。このような事態が起こりうることはすでに指摘されている[28]。そして先述のユーザーのインターネット広告に対する信頼のみに注目した場合とは異なり、このような事態が起こってしまえば、いかに質の高いネイティブ広告を広告表記なしで出してもそれらもすべて疑いの目で見られるため、望ましい帰結は生じない。

 この帰結を避ける方法は3つある。1.消費者の信頼を失わないよう、すべてのネイティブ広告においてメディアの伝えたい情報のみを提供することで、純粋な記事・コンテンツと広告の区別をなくしてしまう、2.消費者の信頼を失わないよう、広告表記のついていないネイティブ広告が広告だという疑いすら生じないようにする、3.消費者の信頼を失わないよう、ネイティブ広告には広告表示を必ずつけること、である。

 2.については、すでに広告表記のされていないネイティブ広告が存在することが知られている以上、実現不可能である。よって、1.と3.について考察しよう。

 1.を実現するためは、記事・コンテンツとしても優れたネイティブ広告を生産し続けることが必要となる。これが実現されれば、それらのネイティブ広告に広告表記をつけることは望ましくない帰結をもたらすという可能性にも現実味が出てくる。第一節で言及したCINRAの代表取締役である杉浦太一などは、まさにこれを実現せよと主張している。しかし現実問題、すべての媒体社のスタッフがそれだけ質の高いネイティブ広告を作成できるわけではなく、提灯記事のようなもののほうががネイティブ広告として量産されやすい。それらに広告表記がつけられていない場合、すべてのインターネット記事が広告ではないかと疑われるという事態が引き起こされるおそれがある。それゆえ、最終的に1.を実現することを目指すのであっても、低質なネイティブ広告のほうがより生み出されやすい状況である限り、誰にとっても望ましくない帰結をより確実に避けるためには3.の実現が求められるように思われる。

 以上から、本稿の結論はこうである。確かに記事として良質なネイティブ広告については広告表記をつけることはユーザー・媒体社・広告主誰にとっても望ましくはないが、ユーザーがインターネット上のすべての記事を広告なのではないかと疑うようになるという、より生じやすい誰にとっても望ましくない帰結を防ぐために、低質なネイティブ広告が生み出されうる限りは、すべてのネイティブ広告に広告表記がつけられる必要がある。

 

 

 本稿では、「すべてのネイティブ広告に広告表記がつけられなければならないか、そうであるならばそれはなぜか」という問いに答えることを目指し、結論として、低質なネイティブ広告が生み出されうる現状では、すべてのインターネット記事が広告ではないかと疑われるという誰にとっても望ましくない事態が生ずるのを避けるために、すべてのネイティブ広告に広告表記がつけられる必要があるという答えを出した。

 本発表では扱えなかったが広告倫理学の伝統的な問題として、広告の内容に関する問題(誇大広告、有害な広告)、広告行為それ自体が自律を侵害する可能性などがある。本発表で考察したネイティブ広告において、その「ユーザーに受け入れられやすい」という性格ゆえにこれらの倫理的問題が従来の広告より深刻化するということはあり得るように思われる。これらの広告倫理学における伝統的な問題と、それらがネイティブ広告などの広告手法の倫理的地位について持ちうる含意を今後の研究課題としたい。(※2015年5月時点の所感です)

 

引用・参照文献表

  1. Beauchamp, T.L and Bowie, N.E., eds., 2001, Ethical Theory and Business 6th ed, Prentice Hall.
  2. Kennett, J. and Matthews, S., 2007, “Marketing, Intimacy and Vulnerability”, in Res Publica, Vol.16, No.1, pp.1-6, The University of Melbourne.
  3. ———., 2008, “What’s the Buzz? Undercover Marketing and the Corruption of Friendship”, in Jornal of Applied Philosophy, Vol.25, No.1, pp.2-18,
  4. Martin, K. D., and Smith, N.C., 2008, “Commercializing Social Interaction: The Ethics of Stealth Marketing”, in Journal of Public Policy & Marketing:, Vol. 27, No. 1, pp. 45-56.
  5. Owens, J. W. and Chaparro, B.S. and Palmer, E.M., 2011, in Journal of Usability Studies, Vol.6, Issue 3, pp.172-197
  6. 一般社団法人インターネット広告推進協議会(JIAA),2015, 「インターネット広告倫理綱領及び掲載基準ガイドライン」, http://www.jiaa.org/download/JIAA_rinrikoryo_keisaikijyun2015_03.pdf, 最終アクセス:2015/05/29 11:46
  7. ———., 2015, 「ネイティブ広告に関する推奨規定」, http://www.jiaa.org/download/JIAA_nativead_rule.pdf, 最終アクセス:2015/05/29 11:48
  8. ———., 2015, 「ネイティブ広告の定義と用語解説」, http://www.jiaa.org/download/150318_nativead_words.pdf, 最終アクセス:2015/05/29 11:50
  9. 消費者庁, 2012, 「「インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法上の問題点及び留意事項」の一部改定について」, http://www.caa.go.jp/representation/pdf/120509premiums_1.pdf, 最終アクセス:2015/05/29 11:53

 

その他、WEBページスクリーンショットの出典や個人ブログのページ等は脚注で示した。

 

[1] http://www.cyberagent.co.jp/info/detail/id=10418 アクセス日:2015/05/29

[2] 略部には、「サイバーエージェントは引用文中のJIAAのガイドライン策定に携わっており、クレジット表記を遵守すべき立場であるにもかかわらずクレジット表記をしなかった」ということについての謝罪と今後の対応策が述べられている。

[3] http://www.jiaa.org/download/JIAA_nativead_rule.pdf

[4] 「ネイティブ広告の定義と用語解説」http://www.jiaa.org/download/150318_nativead_words.pdf

以下、ネイティブ広告の分類を説明する際にはこの資料に依る。

 

(中略箇所に出典を示す脚注5~12がありました)

 

[13] Owens, Chaparro, Palmer,2011, p.194

 

[14] 「ネイティブアドよ、死語になれ。」http://taichisugiura.com/685 アクセス:2015/05/28

[15] http://www.jiaa.org/download/JIAA_rinrikoryo_keisaikijyun2015_03.pdf

[16] 不当景品類及び不当表示防止法

[17] ブログも含む

[18] 消費者庁, 2012, 別添p.5

[19] 個人投資家

[20]サイバーエージェントなど特定企業の社員が違法なネイティブアドビジネスにぶっこんでいる件で」http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150430-00045307/ アクセス日: 2015/05/28

[21] Kennet and Matthews, 2007, p.3

 

[22] Kennet and Matthews, 2008, p.8

[23] 同上,p.10

[24] 同上

[25] Beauchamp and Bowie, 2001, p.471

[26] Martin and Smith, 2008, p.50

[27] 同上p.50

[28] 「ネイティブアドのガイドラインが機能してくれないと、間違いなくネットの記事を一つも信じられなくなる未来が来てしまう件について」http://blog.tokuriki.com/2015/04/post_825.html